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ひな人形とひな祭りに関する知識

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ひな人形について片付けるのが面倒だのなんだのと昨日はグチグチと書いてしまいましたが、ひな人形についてのあれこれを娘に説明できない自分に気づきました。去年までは「お姫様!」とただただ喜んでくれてたので、ちと油断しておりましたが、そろそろ小生意気な口もきくようになってきたので、激しい「なぜなぜ?」攻撃がくる前に予習しておかねば。

■男雛は天皇を、女雛は皇后をあらわすそうです。
恥ずかしながらそのあたりから無知でした。
ほんとに恥です。 ■官女(三人官女)は宮中に仕える女官をあらわしています。
■五人囃子は能のお囃子を奏でる五人の楽人をあらわしています。
それぞれ「太鼓」「大皮」「小鼓」「笛」「謡」だそうです。
■随人の人形は随臣右大臣と左大臣と同時に衛士でもあります。
仕丁は(従者)をあらわします。

日本の雛祭りはいつ頃から始まったのか判然としていないが、その起源はいくつか存在している。日本での起源は、平安時代にすでに京都の上流階級の平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていた記録が現存している。その当時においても、やはり小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられている。しかし、それはどこまでも「遊びごと」であり、決して儀式的なものではなく、そこに雛あそびの名称の由来がある。

これが江戸時代に女の子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」と結びつき、全国に広まり、飾られるようになった。この「雛あそび」が「雛祭り」へと変わったのは天正年間以降のことであり、この時代から三月の節句の祓に雛祭りを行うようになったと推測されている。もっとも、この時代には飾り物としての古の形式と、一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味あいが強くなり、武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の重要な家財のひとつに数えられていた。その為、自然と華美になり、贅沢に流れるようになっていった。

江戸時代初期は形代の名残を残す立った形の立ち雛や、坐った形の「坐り雛」(寛永雛)が作られていたが、これらは男女一対の内裏雛を飾るだけの物であった。その後時代が下ると人形は精巧さを増し、十二単の装束を着せた「元禄雛」、大型の「享保雛」などが作られたが、これらは金箔張りの屏風の前に内裏の人形を並べた豪勢なものだった。この享保年間、人々の消費を規制するため一時的に大型の雛人形が当時の幕府によって規制されたが、この規制を逆手にとって、「芥子雛」とよばれる数センチの大きさの精巧を極めた雛人形が流行することになる。江戸時代後期には「有職雛」とよばれる宮中の雅びな衣装を正確に再現したものがあらわれ、さらに今日の雛人形につながる「古今雛」が現れた。この後、江戸末期から明治にかけて雛飾りは二人だけの内裏人形から、嫁入り道具や台所の再現、内裏人形につき従う従者人形たちや小道具、御殿や檀飾りなど急速にセットが増え、スケールも大きくなってゆく。
※緑の文字部分はウィキペディアからの引用です。

ひな祭りについての説明を読めば読むほど、なーんだ、と感じませんか?そんなに江戸時代ぐらいからか~と。や、もちろん江戸時代でも十分昔の話ですし、伝統的な文化は文化なんですけど。それにもともと二人だけの内裏人形だったのが、江戸末期から明治にかけて、どんどんスケールアップしたなんて若干迷惑・・・。どなたなんでしょうね、最初にバージョンアップさせたの。

 

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ひな祭り、ひな人形に関するあれこれ

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